グイノ神父の説教

 

 2024年

B 年

特別な祝い

聖人の祝日



   

キリストの降誕 (夜中)
聖家族の祝日
神の母まりあの祝日
主の広現の祝日
聖母被昇天



     主の降誕の祭日(夜中) B   20231224日  グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 9,1-6     テトス 2,11-14     ルカ 2,1-14


  神は私たちに対する神の愛の神秘を私たちがもっともっと理解できるように、私たちを驚かせるのが大好きです。確かに 神は逆説が大好きです。自然が暖かなり、日ごとに美しくなって生き返って来る春の真昼にイエスは、息を引き取って、死にました。しかし、伝統によれば、すべてが眠りまた死ぬ冬の真夜中に、夜の暗闇の中で寒さに震えるときにイエスは生まれました。

 神によって、知恵と愚かさ、強さと弱さ、権力と貧困がすべて逆転します。神の考えは人間の考えとは異なります。不思議なことですが、クリスマスの夜、私たちはイエスの誕生を祝いますが、同時に、死打ち勝ち、命が新たになり、弱さが暴力よりも強くなる復活祭の夜も祝ています。これらすべては、私たちを救い、私たちをご自分の命に結び付けるために来られた神の愛の業です。明日も、クリスマスの夜明けと復活の夜明けを祝うことによって、私たちは前もって世界の最後の夜明け、その終末的な夜明けを告げるでしょう。キリストが栄光をまとって再臨されるとき、世界はついに完全に、かつ決定的に新しくなります。

 預言者イザヤは第一朗読で、イエスの誕生がイスラエルの民に平和、光、正義、愛をもたらすこと、つまり王や地上の権力者たちが決して達成できなかったすべての良いことをもたらすことを告げました。不思議なことに、無防備な小さな子どもが「宇宙の主の不屈の愛」を持ってきます。これこそ私たちを神の愛の神秘へと導くクリスマスの驚くべき逆説です。

 全能の神は全人類を統治するためではなく、全人類に仕えるために人となりました。イエスは、色々なあざけり、侮辱、苦しみを通して、最後には十字架で死ぬときまで、謙虚に、ご自分の道を横切るすべての人々を癒し、赦し、慰めてくださる人間でした。このようにしてイエスはすべてを新たにし始めました、と聖パウロは友人テトスへの手紙の中で説明しています。イエスはベツレヘムで生まれたその日から、個人的あるいは集団的な情熱の暴力に代わり、善で悪に打ち勝ち、また、赦しと慈しみで罪を克服するために、神の恵みを地上に広めました。

 この夜、私たちが自分たちの内に迎え入れるのは、この救い主である神ご自身です。 この夜、私たちが天使たちと声を合わせて大いに感謝し、賛美をささげなければならないのは、この救い主である神です。この夜、私たちがキリスト者であろうとなかろうと、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と心を込めていっぱい、歌いましょう。 アーメン。

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          聖家族の主日  B  20231231日  グイノ・ジェラール神父

            創世記15,1-621,1-3       ヘブライ11,8-19      ルカ2,22-40

 私たちは聖家族を祝い、この日の朗読が、すべての家庭生活において不可欠なものである信頼を強調しています。神と神の言葉への信頼、自分自身と他の人への信頼、子どもの親に対する信頼、親の子どもに対する信頼、愛する人たち、出会った人たち、助けやアドバイスや赦しを求めに来る人たちに対する信頼などです。信頼の欠如は恐怖、疑い、不信を生み、時にはストレスや落ち込みの原因になります。 自信の欠如は人の可能性の成長を妨げ、しばしば孤立や自殺にさえつながります。

 したがって、聖家族は、木を根こそぎ海に植えるような信頼を私たち全員に勧めています。イエスもマリアもヨセフも生涯にわたって、困難な時期に直面しなければなりませんでした。 しかし、彼らは神の摂理に信頼をく方法を知っていたため、すべての試練を乗り越えることができました。そういうけで、新年を迎えるにあたり、彼らを模範として私たちに与えられています。

 今日、神に捧げた幼子イエスのうちに、神がアブラハムにした約束やイスラエルの民の歴史全体、そして矛盾に満ちる全人類の未来が凝縮されています。年老いたシメオンが前もって母マリアに預言し、告げたキリストの十字架は、人々の秘められた思いを明らかにし、また良い麦と毒麦を分けるでしょう。このように、新たにされる全人類の母となるマリアは、神の言葉の剣によって最初に刺し貫かれることになるでしょう。どんな両刃の剣よりも鋭く、この剣はいつか私たち皆の魂と心の関節を切り離すほどに刺し通すでしょう (参照:ヘブライ人への手紙 4, 12)。


 したがって、神と私たちの存在の一部である全ての人々に対する私たちの信頼は、イエスと彼の命の言葉から引き出される希望と信仰によって支えられなければなりません。幸いなことに、マリアとヨセフの模範、そして私たちのために彼らの絶え間ない祈りと執り成しは、日常生活の困難と思いがけない出来事にもかかわらず、私たちが神への信頼を強めるためにとても役立ちます。

 私たちは、受肉した神の言葉であるイエスがすべての人を照らす光でもあることを知り、また信じて、宣言します(参照:ヨハネ 1914)。たとえそれがある時には苦しみや試練を通して達成されるとしても、私たちの日常生活を通して徐々にイエスは、御自分の顔を現したいと願っています。イエスはまた、わたしたちが心の奥底で父なる神との真の関係を生きることを切に私たちに教えたいと望んでいます。この特別な目的のために、イエスはミサ祭儀を通して私たちにご自分の死と復活の神秘を分かち合います。なぜなら、ミサ祭儀の時に、私たちに対する父なる神の愛が最もよく示されて、私たちに満たされるからです。

 私たちが今日のミサ祭儀を通して、ゆるぎない信頼を持ってキリストを私たちの内に受け入れることによって、私たちの信仰、希望、そして愛を生き生きとさせることができますように。確かにイエスは神の言葉と自分の御体と御血において、ご自身を完全に啓示しています。ですから、この偉大な神秘を心に留め、聖家族のように、私たちもたえず神に感謝を捧げたいと思います。父なる神が私たちの家族それぞれを祝福し、ご自分の平和と愛のうちに私たちを成長させるようにお互いに聖家族に祈り合いましょう。アーメン。

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 神の母マリアの祭日  界の平和の日  B 年  202411日  グイノ・ジェラール神父

            民数記6, 22-27       ガラテ 4, 2-7      ルカ 2, 16-21

 皆様、明けましておめでとうございます。良い年であり同時に聖なる年になりますように。私たちはこの新年を神の母マリアと共に始めます。マリアはイエスを示し、私たちをイエスのもとに導いてくださるお方です。偉大な教会博士の一人である聖ベルナルドは、キリスト者たちの生活における母マリアの役割について話すのがとても好きでした。彼は母マリアを、私たちのあらゆるニーズに必要な水をもたらす古代ローマの水道橋として提示しました。マリアは、私たちの人生のあらゆる状況に広がる命の水として、自分の子イエス与える水道橋のようなものである、と説明しました。

 確かに、マリアは水道橋のように、マリアは神の母として、私たちにイエスを与えてくださる方です。彼女はベツレヘムでイエスを出産したときに一度神を与えました、そして自分に自身を委ねる全ての人に母マリアは毎日神を与え続けています。マリアは、息子イエスに関するすべての出来事を心の中に留める方法を知っていたので、私たちが同じようにできるように助け、特に自分の視線の下で私たちの人生におけるイエスの行動を黙想できるように助けてくださるのです。

 私たちが自分の人生を目の前で展開する映画のように外側からだけで見ることがないように神の母マリアは助けてくれます。母マリアは私たちに内面的な生き方を教えます。それは私たちが自分の内にイエスの存在を深く味わうためです。今年は主の存在だけでなく、私たちが愛する人や知っているすべての人たちの存在で満たされるようにしましょう。なぜなら、神に満たされるということは、人生のあらゆる出会いや出来事を神とともに生きることだからです。

 神の母マリアは今日、私たちの世界に神の平和をもたらします。この平和を天使たちはベツレヘムの羊飼いたちに約束しました。飼い葉桶に寝かせられていた幼いイエスを発見すると、神の平安が羊飼いたちおおい、満たし、彼らは神を賛美し、栄光を讃えながら、立ち去りました。

今年の初めに、マリアが私たち皆に「羊飼いの心」、あるいは彼女自身の心を与えてくださることを私たちは望むことができます。つまり、キリストを見つけて愛することができる心、驚きながら神に感謝を捧げることができる心を母マリアに願いましょう。このような心がまた、私たちを満たし、聖なるものとする信仰をどこでも宣言し、証しすることができますように。ベツレヘムの羊飼いのように、キリストを発見した人はキリストを証しする以外に何もできません。

今年の最初の日、元日は世界平和祈念日です。神の母マリアにこの平和を願いましょう。 彼女と一緒に、戦争、暴力、テロリズムによって痛ましい痕跡を残しているこれらすべての国々について考えてみましょう。引き裂かれた家族、もう口をきかなくなった隣人、赦しを拒否する友人たちを忘れないようにしましょう。 今年一年を通して、私たちが平和と慈しみの手となるために母マリアが助けてくださいますように。 アーメン。

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        主の公現の日  B年  202417日  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ 60,1-6     エフェソ 3, 2-35-6    マタイ 2,1-12

 主の公現の日は私たちにキリストの神秘をもたらします。すべての人の救いに関するこの神秘を聖霊が私たちに明らかにしてくださると聖パウロは告げています。確かに、私たちの歴史に入り込むことによってイエスは、神の本当の顔を明らかにするために、私たちを神の方へ導いてくださいます。しかし、それを実現するためには父なる神がまず、全人類をイエスのもとに引き寄せる必要があります。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(参照:ヨハネ6,44)とイエスご自身が宣言されました。

東から来た占星術学者たちは星のおかげでイエスを発見しました。確かに、神はまず創造物を通してご自身を啓示なさいます。「天は神の栄光を告げ知らせる」(参照;詩編192)と詩編が宣言します。特に星は、私たちが神を発見することを可能にしますが、それには驚かされることが条件です。初めから、すべての被造物は常に、その中に神の存在と神秘を発見するように人々を誘ってきました。主の公現の日は、私たちの周りの世界を再発見し、高く評価し、神に感謝するように私たちを促します。なぜなら、神の似姿で造られた私たちの手に全世界をゆだねられたからです(参照:ミサの第四奉献分)。

 占星術学者たちをイエスに導く第二の道しるべは、神のみ言葉です。始め、おそらく占星術学者たちは昔ニネベとバビロンに追放されたユダヤ人が残した書物を調べました。しかし、神の都であるエルサレムで、祭司長と律法学者たちがメシアの誕生の場所を彼らに教えました。聖書は知恵と命の無尽蔵の泉です。別の詩編には「神の言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119105)と教えています。 ですから、私たちの生き方が安全に教え導かれるように、また私たちがイエスに出会い、イエスを見る喜びを味わうことができるように神の御言葉に対して揺るぎない信頼を持ちましょう。

 占星術学者たちは確かにイエスを見て、彼らの贈り物をイエスに差し出しました。 彼らは特にマリアとヨセフの近くで、神が人となられたことを発見しました。それは「人間性にあずかった神の神聖に私たちがあずかることができるためです」という事実をミサでの奉納の一つの祈りは思い出させます。この祈りは実際、イエスの神秘と私たち自身の神秘を教えてくれます。つまり、神はイエスと聖霊の力を通して、私たちをご自分と親密に結びつけることを望んでおられます。なぜなら、神は私たちをご自分に似せて創造されたからです。

 主の公現の日は、私たちが星と創造物の美しさによって驚かされるように招いています。また、命に溢れる神のみ言葉の美しさと共に、イエスが私たちと関わってくださっている神の神秘の深さを再発見するように、主の公日は私たちを誘います。今日のミサ祭儀が、イエスが私たちに「父」と呼ぶように教えた神との完全な出会いへの道を開きますように。確かに私たちは父なる神の愛する子どもたちです。 アーメン。

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      聖マリアの被昇天  B年  2024815日   グイノ・ジェラール神父

        黙示録11,1912,1-610      1コリント15,20-27      ルカ1,39-56

 マリアの被昇天について語るには、この出来事に関するより正確で詳細な文書が必要ですが、残念ながらそれらはありません。そういう理由で、カトリック教会がマリアの被昇天の教義を確認するために長い時間を費やしてしまいました。

 実際、マリアの被昇天は、教義である前に、教父たちの伝統に基づいた信仰であり、初代教会に認められた聖書の根拠に基づいたものではありませんでした。実際、新約聖書にはマリアの最期を想起させる文章は全くありません。この空白を埋めようとしたのは外典の文章や伝説でした。しかし古くから「マリアの最後の眠り」という名前の下、最初の東方キリスト者たちはマリアの被昇天を祝い始めました。正教会にとって、マリアは死の中で「眠りに落ちた」のです。


 教皇ピウス12世が被昇天の教義を推進したのは、1950年の20世紀になってからでした。その日は815日ではなく、111日の諸聖人の日でした。それは、マリアをすべての聖人の交わりに加えるためでした。こうして教皇ピウス12世は、すでに14世紀から存在してきたマリアの祝日を正式なものとしました。被昇天は今後、神から啓示された信仰の教義として考慮されと宣言することにより、マリアは原罪から守られ、個人として罪を犯さなかったので、地上での生涯を終えた後、身も心も天の栄光に高められました。

 ご存知のとおり、どこに行っても苦い思いや不安を残す人もいるようです。彼らは、人を傷つけたり、悪意のある考えをほのめかす言葉を使う才能を持っているようです。楽しそうに見えても、何かに復讐しようとする深い不安が見受けられます。幸いなことに、聖母マリアのように、その存在がすべてを照らす人々もいます。これらの人々は、口を開かなくても、心を落ち着かせ、すべてを心地よくし、平和と喜びを運ぶ良い香りをもたらします。

 私たちが聞いたマリアのエリザベト訪問の話は、これがいかに完璧に実行されたかを示しています。平和と喜びがマリアとエリザベトを光輝かせ、神への感謝の気持ちで満たします。たしかに、聖母マリアは平和の泉であるので、彼女の存在が自然にすべてを美しく完璧にするのです。 そういう理由で母マリアが私たちに模範として与えられています。ですから、恐れずに母マリアに目を向け、彼女の助けと保護を求めましょう。何よりも、思いやり、理解、母性愛に満ちた彼女のような心を私たちに与えてくださるようお願いしましょう。

マリアの被昇天は、人生の些細な問題を乗り越え、上へ、上へと神に繋がる謙遜と愛徳の階段を少しずつ登るように私たちを誘います。マリアと共に、喜びと感謝の中で生きることを学んで、常に神と周囲の人々に目を向けていきましょう。マリアと共に、私たちも平和、喜び、愛の溢れる泉となりますように。アーメン。

           



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